風流でありたい

学校から帰るとき、ふと目線を上げると夜空に綺麗な満月が浮かんでいた。今日は中秋の名月らしい。秋とは言えないほど今日は暑い日だったが、中秋である。苦情は聞き入れない。

ついさっきまで知らなかったが、中秋の名月は必ずしも満月ではないようだ。どういうことよ、と思って調べてみた。太陰暦の8月15日に出る月を「中秋の名月」というが、実際その日に満月になるとは限らず、1日程度ズレることが多いそうだ。なんと今年は8年ぶりに「中秋の名月」と「満月」が重なったらしい。そんな珍しい月を見られた私は「ツキ」があるのではないだろうか。(お後がよろしいようで)

 

しかし、今日の私は満月以上に良い景色を見てしまった。良い景色というと語弊がある、言うなれば「風流」。

女性が1人、ススキを片手に持って宵の街中を歩いていたのだ。

理由もなく、その後ろ姿を見て「風流」と思った。当然私はその女性を知らないし、ススキを運んでいた理由も知らない。しかしその光景は「風流」とのみ言わざるをえないほど、「風流」であった。

例えば、これが昼だったり真夜中だったりしては意味が無い。「宵」だからこそ風流。さらに、田舎道では意味が無い。「街中」だからこそ風流。最高に「をかし」である。その光景を見て、私は妙な感動を覚えた。

もしその女性が、見知らぬ男子高校生に謎の賞賛をされていることを知ったら、さぞかし気持ち悪く思うことだろう。大変申し訳ない。

 

しかし私はその景色を見て決めたのである。

「風流になろう」と。

これからのトレンドはずばり「風流」である。風流である者が良しとされ、風流でないものが悪しとされる、そんな風流バトルロワイヤル的世界がもうすぐやってこようとしている。私は風流になりたい。平安時代の貴族のように、雅な人間でありたいのだ。

しかし、現代社会に合った「風流」でなくてはならない。例えば平安時代の貴族のように束帯を身につけて蹴鞠をしていたら間違いなく通報されるだろう。もしかしたら、平安時代からタイムリープしてしまった悲劇の人物とされて、タイムマシンの研究が急速に進むかもしれない。とりあえず、大ごとになるのは確かだ。

 

では一体、何が現代社会に合った風流であろうか。ファッションから考えてみよう。たとえばネルシャツなんて着ていたらごくごく平凡、NOT風流である。清少納言に「すさまじきもの」と言われてしまうだろう。パーカーもカジュアルすぎてNOT風流。Tシャツなんて論外。ここはやはり、革ジャンであろう。革ジャンは「をかし」である。(個人的見解で話が進んでいきます)

靴はどうする。ニューバランスのスニーカーなんてほぼ制服である。そういう世間一般の流れから少々逸脱するのが風流なのである。下駄は狙いすぎている。厚底ブーツくらいが丁度いいか。いや、ただの長靴こそが「をかし」であろう。間違いない。(個人的見解で話が進んでいきます)

でも服装なんて正直どうでもいい。趣味が風流であることが大切である。スポーツ観戦は普通だから風流じゃない。アニメオタクも今や一般化しすぎている。ここは風流の原点に立ち直ろう。風流とは、俗でなく、優雅なさま。「四つ葉のクローバー集め」が、まさに風流ではなかろうか。その行為は俗な理由からではなく、「四つ葉を集めたい」という純粋な気持ちから生まれる。しかも、自然と戯れるさまは優雅である。実に風流だ。(以上、個人的見解でした)

 

今までのことをまとめると、私が風流な人間になるには、革ジャンを着て長靴を履いて、四つ葉のクローバーを探せばいいのである。そんなことをしていたら間違いなく通報されるだろう。つまり風流と通報は隣り合わせということだ。もし風流になりたい人がいれば、くれぐれも行き過ぎないようにすることが大切である。良い風流生活を。